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産業観光と青函連絡船摩周丸

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====== 産業観光と青函連絡船摩周丸 ====== //「産業遺産と青函連絡船摩周丸を考える」セミナー講演録(メモリアルシップ摩周丸・2002年3月9日)// ===== はじめに ===== 本日はお招きいただきありがとうございます。またNPOの認証おめでとうございます。さて、さきほど司会の交通新聞社、上地様から私の経歴についてご紹介いただきましたが、実は私、国鉄~JRを通じて東京より北で勤務した経験がありません。しかし、連絡船や北海道に全くご縁がないということはないのでありまして、まず前段といたしまして、少しそういう話をさせていただきます。 ===== 私と連絡船との縁について ===== 私は1954(昭和29)年に(旧)国鉄に入社いたしました。と申しますと、ここにいらっしゃる皆様は、ああ、あの洞爺丸の海難の年だとおわかりでしょう。その年は、研修生ということで、もちろん我々は制服を着ていたわけです。そして、9月のあの日までは、制服姿で街を堂々と歩いていました。しかし、あの日以降しばらく、本当に国鉄の制服を着ているとつらい、街の人々の視線がつらいと思う日々が続きました。 その後、研修の終了ということで、研修旅行というのがありました。当時の急行「北上」で青森に着き、話に聞いている連絡船というのはどういうものかと楽しみにしていましたら、普通の船、徳寿丸という船でした。皆様ご承知だと思いますが、洞爺丸台風で青函航路の船が足りない、で、かつて関釜航路などでつかわれていた船で、余っていた船が青函に回ってきていた。これは車輌航送しないから普通の船の構造なわけです。函館からは急行「あかしあ」で札幌に向かったのを覚えております。 そして北海道からの研修の帰りの連絡船が、本当の青函連絡船、先代の摩周丸でした。この船では船底の3等船室に席を取りました。今は船底に船室がある船はあまりない、今ここにある摩周丸ももちろんないですが、先代はあったのです。船底から波の音など、いろんな音がするので驚きました。 そんな経験のあと、私は静岡鉄道管理局に配属されました。静岡で連絡船にご縁があるのか? それがあったのです。静岡鉄道管理局の管内に飯田線というローカル線があります。今もそうですが、山の中を走る山岳路線です。ここで1957(昭和32)年に大きな地すべり災害がありました。飯田線に小和田(こわだ)という駅があります、その駅と次の駅、大嵐(おおぞれ)駅の間で起きたもので、山容が変わるかというような大きなもので、1か月以上復旧はダメと思われました。当時は並行する道がもう全くない。代行輸送をどうするかが問題となりました。 ところで、飯田線のちょうどこの区間には、山の中なのですが、眼下に電源開発株式会社(電発)が建設した有名な佐久間ダムの、そのダム湖(天竜川)があったのです。電発に尋ねると、このダム湖には巡視用として100名は乗れそうな電発の船が2隻あるということがわかりました。そこで国鉄ではこの船を使って、湖上の代行輸送をしようと思いついたのです。ところが電発にお願いに行きますと、船の借用は快諾が得られたのですが、お客を100名ものせて航行できるような資格のある船長が1名しか常勤していない、船員がいないんだというわけです。もちろんたった1名の船長を朝から晩まで連日休みなしに使うわけにいきません。 そこで船員のほうは国鉄で用意することになり、静岡局から本社の船舶局にかけあって、当時の函館の船員区から船長、機関士などに10名くらい応援に来てもらえることになったのです。大きな青函連絡船を操船している人達を呼ぶのですから、まあ牛刀をもって鶏を割くが如しではありましたが、来られた方もいざ現地に来てビックリしたらしいです。「張り合いはないが難しい」といわれました。 ダム湖は川と一緒で流れがありますし、雨が降ると天竜川上流からドッと流木が来るんです。これはトビ口を持った職員を船首に立たせてどかす、小船ですが大変なんです。約1か月、青函連絡船の船員にたった3kmほどの区間、1日10数往復の運航をやってもらいました。私は案内係で現地にいったのですが、乗り組んだ船員の皆さんの真剣な勤務ぶりを間近に感じました。その体験をされた方、青函船舶のOBの方にまだいらっしゃると思います。 その後、しばらくたって四国鉄道管理局(国鉄四国支社)にも勤務しました。ここでは宇高連絡船にはよく乗りました。当時の宇高は2000トン級で船内の車輌航送のレールも2線しかない小さなものでした。ただ、定員は青函より多かったです。内航の閉水の航路ですから甲板席とかの人数算定が認められているからなんですね。あちこち中も見せてもらいましたが、驚いたのは乗組員用の風呂が2つあったこと、つまり士官用と普通船員用があるわけです。また、さきほども船内見学の時の模擬出航でも見せて頂きましたが、船橋で船長の命令一下水を打ったように静かになって復唱する。そういう雰囲気に感動して、ああ船長ってすごく偉いんだなあと思いました。 もうひとつ、私と連絡船のかかわりをお話させてください。 1984(昭和59)年に摩周丸事件というのがあったのはご承知でしょうか。これはもちろん今ここ(函館)に保存されている摩周丸で起きた事件です。旅客をのせていない航海中に船内火災が発生したのですが、その火災で乗組員が亡くなられました。これが当時国会で問題になったのです。というのは、もうこのころには国鉄の労使関係がいろいろと難しい時代になっておりましたし、また世の中いろいろとありましたので、国会で「これは過激派の破壊活動ではないか」などと問題になりかけたのです。 当時私は船舶局の担当でしたから国会にまいりました。調べても原因がわからないのです。過激派の破壊活動とかではないことははっきりしたのですが、原因がわからないのですから答弁は苦しいものになります。今時の誰かさんの国会答弁ではないですが、「鋭意調査する」とか「原因究明に努力中」としかいえないのですから困りました。余談ですが、そのときに青函船舶鉄道管理局にもご協力いただきまして、この船(摩周丸)のいろんな図面を取り寄せて勉強しましたので、素人ながらこの船の構造についてはずいぶんと覚えました。 こうした連絡船とのかかわりの中で、私は船員の皆さんがお持ちの独特の船員魂というようなものを垣間見ることができたように思っております。船は一つの「現場」です。地上であれば駅と同じですよね。船員さんの出勤簿は船にあり、給料袋も船でもらって帰る、そうした中、国鉄の末期、陸上の方ではいろいろと職場規律の問題がありましたが、船は規律が守られていたような気がしました。 それにしても摩周丸という船はラッキーな船だと思います。先代はあの洞爺丸台風の時、ちょうど浦賀(神奈川県)のドックに入渠中で無傷で助かっております。また2代目の船は、今こうして一番親しまれた母港函館で保存されています。どうか末永く残っていてほしいと思っています。 ===== どうして産業遺産の保存が大切なのか ===== さて、本題に入りましょう。まずはじめに、産業遺産を保存するのがなぜ大切なのかということをお話させてください。ここで「産業遺産」というのは近代産業遺産のほうです。もっと古いものは大切に保存されていますよね、思いきり古いものは「出土品」などといって、これはもっと大事にされています。ここでいう近代産業遺産というのは明治以降の機械や建物なんかのことです。 なぜ、私が近代産業遺産の保存ということをこうして唱えているかといいますと、まず動機として、今これらが捨てられるか、保存されるかの瀬戸際になっているということがあります。今の時代が、ちょうど第一次の近代化産業遺産が引退の時期を迎えて、捨てる瀬戸際になっています。すべてのものにいえますが、工場の機械なんかでもそうです。 たとえば私のJR東海のエリアである名古屋でいいますと、自動織機があります。豊田佐吉が自動織機を発明した話は聞いたことがあると思います、これで儲かったからいまのトヨタのクルマの隆盛があるというのも知っておられるでしょう。あの自動織機というのは故障検知、糸補充機構、群管理などの、今風にいうとさまざまなフィードバック機構のついた画期的な機械です。これはつい最近まで現役で稼動していましたが、10年ぐらい前からほとんどコンピュータ制御の高速織機に変わっております。つまり完全に捨ててしまうかどうかの判断の時期が10年前にやってきたということです。 トヨタグループでも保存については、だいぶ議論したらしいです。でも、結局、名古屋市西区の工場を、そのまま残しております。産業技術記念館という名称でありますが、今でもずらっと並んだ自動織機が一斉に動く状態が保たれています。 このように、今まさに多くの産業遺産が残す残さないの瀬戸際になっております。もちろん整理がいります。全部残すというわけにもいきません、何と何を残すのか、残すのなら可動状態に維持するのかしないのか等々、そこで今まさに存廃の危機というわけです。 産業「遺産」ということばがなんとなくネガティブで気になるのであれば、産業文化財といいかえてもかまいません。皆で議論し、評価をしていく重要な時期であるといってもいいでしょう。 さて、次に、残す意義がどこにあるのかということを述べたいと思います。これには大きくわけて2つあります。 1つめは、これからの産業技術の発展のために必要であるということ。 2つめは、後継者の育成のために必要であるということ。 何を残すかという判断においても、この点から考えていきたいと思います。まず、1つめのほう。将来の発展は過去の積み重ねです。だから学習のためにも残さなければならないということです。 たとえば、愛知や岐阜には昔からからくり人形が発達しています。飛騨高山のからくり人形なんかはご承知でしょう。実はある学者がいうには、あの豊田の自動織機にはからくり人形のメカニズムに通じるところがあるというのですね、あと、名古屋名物(?)とかいうパチンコ台のメカも、からくり人形の応用だというのです。 もし、自動織機やパチンコ台がからくり人形と同じ技術発達史の上にあるとすると、からくり人形が保存され見られる状態であったからこそ、これらが生まれたともいえるかもしれません。で、自動織機から高速織機が生まれた…、つまり、技術史の節目節目の機械が保存され、しかも現実に可動することを目の当たりに見られる状態を保つことが、技術の発展の上で非常に大切であると思われるのです。 2つめのほう、後継者の育成ですが、これは、ものづくりの心、原点に触れることがないと、後継者が出にくいのではということです。 愛知県には陶磁器の見事な博物館があるのですが、ここを見て陶工を目指そうと思った人がおられます、産業技術記念館を見てエンジニアを志す人も育つはずです。こうしたきっかけが産業立国であるこの国にとっては必要です。こうした産業遺産は、できれば動態保存が望ましいのです、ただ、船は浮いているし、動かすとなるとさまざまな資格の人が必要ですので難しいとは思いますが。 以上、産業遺産を残すということの意義についてまとめますと、まず動機として、今が近代化産業遺産に相当するものが存廃の瀬戸際にきているという問題意識です。明治の初めにかなりのお城が消えていますが、今がそんな時期と考えてください、今各地にもっとお城が残っていたら、どうだったでしょうか。なお、残すべき遺産の時代は刻々と下がり、また変化していますから気をつけてください。 そして次に、残す効果として、これからの発展のための基礎、そして、後継者の育成というものがあります。函館では、こうしたことについて、まさに摩周丸の保存ということ、また今回のNPOの創設が一石を投じていると思います。 ===== 産業遺産を残すために、どう活用していくのか~産業観光のすすめ ===== さて次に、産業遺産の活用ということを考えてみたいと思います。産業遺産を残し、生かして、地域振興・まちおこしに使っていこうということであります。その試みとして「産業観光」というものを考えてみようというのです。 ここで「観光」ということの重要さを考えてみたいと思います。まず観光ということばの意味を考えてみます。どうも、「観光」というと物見遊山、遊び、商業主義、退廃といったイメージがつきまといますが、これは誤解です。 本来、観光というのは、中国の古典「易経」からきた言葉で、そもそも、「観光」という言葉のはじまりは、「易経」の「国の光を観る。もって王に賓たるによし」にあるとされています。当時の中国は群雄割拠の時代の直後ですから、ここでいう国とは、地域とかエリアとかいう意味に解していいと思います。すなわち、わかりやすく意訳すると、「地域の優れたものを見せるのは、為政者の大事な心がけである」ということです。つまり「観光」というとすぐドンチャン騒ぎを考える人が多いですが、要するに為政者の大事な勤めだということです。 次に、観光というものの国家的必要性を申し上げます。まず21世紀は交流の世紀であるということです、20世紀は大戦と冷戦、つまり戦いの世紀でしたが、 21世紀は交流の世紀です。日本ではこれからどんどん人口が減っていきます。人と人とのふれあいが文化をつくると考えますと、人が減っていけば、より一層の交流がないと、文化の発展ができなくなります。人と人との交流を増やす観光というものが大事になってくるわけです。 そして、2点目として、観光は大きな経済効果のある産業だということです。観光産業は20兆円200万人産業といわれています。間接的なものを入れると 50兆円400万人産業だといわれています。また、たとえばフランスは年間7000万人の外国人観光客を受け入れていますが、日本は年間400万人しか外国人観光客が来ていません。日本から外国に観光に出る日本人は400万人よりずっと多い年間1800万人ですから、観光の貿易収支については日本は約2兆円の大赤字です。今はほかの貿易が黒字ですからトータルでは目に見えていませんが、将来問題になるかも知れません。要するに観光は立派な産業であり、これを伸ばすことが国家経済の発展につながるわけです。さきほどの産業遺産の意義づけの話とあわせて考えると、ここで産業観光キャンペーンというのが出てくることはおわかりかと思います。 さて、日本の産業遺産の特徴として、産業革命期の変革がきわめて短期間で終わっているため、ある意味で産業遺産が残りやすかったということがあります。欧米では200年くらいかかって行われたものが、60年から70年くらいで行われています。ですから、さまざまな過程のものがよく残っているといわれています。とくに中京圏ではよく残っているといわれております。また、保存の意識も高い。 ただ、今までの現状はどうなのかと申しますと、1つは、行政がいわゆるハコモノ行政の一環としてやっているもの、もう1つはトヨタなどが、企業の文化活動としてやっているもの、この2つです。結構なことであるのですが、この2つのものにはどちらにも難点があります。すなわち、お客を入れようとする集客のモチベーションや、インパクトに欠けているのです。でも本当は、こういうのはもっともっと人が見なけりゃ意味がないんじゃないか、実は、そこで私がいろいろと言いたくなってきたというわけです。 さきほどから例に出したトヨタの産業技術記念館は、1994(平成6)年にできたと思いますが、そのころ平日に行ったところ、誰もいなかったんです。私の靴の音だけが広い場内に響きました。また愛知県立の陶磁資料館(瀬戸市)には12月の日曜に行きましたが、資料館に行く乗合バスには私1名しか乗っていませんでした。運転士に聞くと誰も乗客がいないときも多いという。こういう状態でいいのか、名古屋の人でも知らない人が多い。 私は京都の出身です。でも私も、やっぱり京都の名所はろくに行っていなかった。1951(昭和26)年に金閣寺(鹿苑寺金閣)が焼失したときは、見ていなかったことをすごく後悔しました。もっと地元のいい「観光地」を見て、そしてそのよさを他の地域の人々に発信していく。これは地域の人々や組織の義務ではないのか。そういうことを考えて、1996(平成 8)年から産業観光キャンペーンをはじめたのです。 私どもがやっている産業観光キャンペーンのこともあり、ここから少し東海地方のことをお話します。まず、名古屋近郊にはこうした産業観光に適したよい施設が20くらいあるのです。いくつか紹介しますと、まずさきほどから出ているトヨタの産業技術資料館、これはいろんな機械が時代別にあり、ほとんどすべてが動きます。自動車のメカの展示なんかもありますが、もちろん動きます。 自動車といえば、トヨタには自動車博物館というのもあります。これは名古屋市郊外の長久手町にあるのですが、保有車両約600台で世界の名車がほとんどそろっています。トヨタが昭和の初期に自動車製造に進出するときに研究に買い集めた車もあります。また国内の他社の名車もあります。日産のダットサン・トラック、ダイハツのミゼット、富士重工のスバル360などもあるんです。またこれも先にお話ししましたが、瀬戸市の県立陶磁資料館も、世界的なコレクションで、興味のある方なら1日どころか3~4日かけてみたいものだそうです。私はまあ専門ではないので半日で退散しましたが… その他、地場産業に関係したおもしろいものとしては、中埜酢店なんかでやっているお酢を中心とした醸造の博物館(半田市)、三州瓦の産地で有名な高浜市にある屋根瓦の博物館、タイル・産業陶器で有名な常滑市にあるタイルの博物館なんかも変わっています。岐阜県各務原市の航空宇宙博物館はゼロ戦などの実機が魅力です。もちろん明治村や徳川美術館はみなさんでもご承知と思います。 こうしたすばらしい施設がいっぱいあるのに、地元の人がなかなか見ようとしないし、知ろうとしないのは情けないことだと思います。ただ、この中部エリアは海や船に関するものはちょっと弱いですね。外洋が身近でない地域だからでしょうか。 つまり、こうした施設や、モノを使って産業観光でこの地域に人を呼ぼうと思っているわけです。愛知県は「モノづくりの県」であるということを誇りにしている県です、だから今までウチは「観光」県ではないと言ってきたところがあります。 その愛知県で2005(平成17)年に万博が開かれるのですが、皆さんご承知でしょうかねえ。万博ですよ、あの大阪万博と同じ格の国際博覧会を開催することになっているんです。ところが誘致の時、世界をまわって「愛知で万博」と言ったら、愛知なんか誰も知らない、言語によっては語頭のAを強く読まないことも多いから、ある場所では「ハイチ?、中米のハイチがどうして万博なんかできるのか」なんていわれたらしいです。で、「トヨタ」があるのが「アイチ」だというと、オーッと言って皆がわかるという。こんなエピソードを聞いても、やはり「産業観光」を考えないといけないと思ったわけです。 もう一度言いますが、今が瀬戸際という動機、そして技術発展のため、後継者の育成のためという意義がある。だからできるだけ多くの人々に見せなくてはならない。そして国家としては、日本に多くの人々を呼ばなくてはならない…というわけです。日本は産業立国なんだと言っている、だったらそれを外国の方に見せればいいわけです。かつ、それで充分な経済効果があがるようにしなければならないわけです。 ただ、たしかに、産業観光だけではインパクトが弱いかもしれません、学習中心の観光になってしまうからです。ですから、既存の観光パターンともうまく結びつけることができるのなら、それもいいと思います、大沼と産業観光でもいいでしょう。そもそも、函館は優れた観光資源に恵まれていますから、それと組み合わせることもいいでしょう。 ===== これからの観光を進めるための留意点 ===== さて、私の話も終りのほうになってまいりました、ここで産業観光や観光全体に関する留意点といったようなものを3つばかり申し上げたいと思います。 ひとつは、観光というものはこれからは広域的に考えていかなくてはならないということです。また、2つめに、観光というものは国際的な視点で意義があるものでなければならないということ。そして3つめに、観光というものはまちづくりと一緒にやらなければうまくいかないということです。 まず、広域的という話をいたしましょう、観光の運動・施策というものは、いままでは行政中心でやってきたわけです。つまり市町村、都道府県という自治体単位です。ところが、今では交通が発達し、行動半径も広がっています。もっと広域的に連携しなければいけません。まあ、北海道はもともと広い「道」であって、そういう意味ではいろいろとやりやすいと思いますが。中部地方の産業観光も、広域的に考えていきたいと思っています。摩周丸も、函館市さんが取得される案があるとかうかがっておりますが、「函館市」の名所というだけでなく、より広域的なことを考えていただければと思います。 次に観光に国際的な視点がいるということを申し上げます。とくに産業観光という点では国際的な視点ということが大切だと申し上げます。私どもが外国の旅行業者などを呼んで話を聞いてみますと、国にもよるのですが、彼らが必ずしも日本の伝統的な風物をいいと思っていないことがわかります。 ある時、マレーシア、フィリピン、台湾あたりの人に中部圏の観光名所をいろいろ見てもらってアンケートを取りました、すると、意外なことに富士山や伝統的な温泉地である下呂や熱海の評価はいまいちだったんですね。台湾には富士山より高い山があり、冠雪するし、富士山のような山容の山は外国にもあるそうです。温泉だって外国にないわけではない、で、何を喜んでいただけたかというと、まず自動車工場の見学、次に、楽器工場の見学がきました、その次がさきほど例に出した産業技術記念館です。我々がいう伝統的な観光地、犬山の日本ライン遊覧船なんかですが、これがやっと4番目以降にいくつか並びました。 アメリカを別にすれば、海外から日本に来る観光客は近隣の東南アジアのお客様が多いわけですが、日本を産業国家だと思っているということです。だから、日本に観光に来たらまず「産業」が見たい、そして産業の「生産物」が買いたい、つまりショッピングだと、こういうわけです。 アメリカやヨーロッパから来られる方はまた違う方も多いかもしれないですが、要するにアジアからのお客様の観光のテーマとしては、「日本の産業の発展の経過」とその「生産物」に、すごく興味があるんだということです。意外とそういうことに今まで気がつかなかった、今ようやく私どもは気がついて、そういう旅のアレンジを一生懸命している。そういうわけです。 国によって感度に差があるということで、たとえば摩周丸ですから船の例をあげますと、フィリピンなんかはすごい島国ですから船の話は、とくによろこんでいただけます。そういうことも最近わかってきました。 3番目のまちづくりの話をいたしましょう。近代化産業遺産を残すためには、まちづくり、つまり都市計画と一緒にやらないとうまくいかないということです。 産業技術記念館については名古屋市が、そのあたりの道路などの整備も一体となって考えています。また岐阜県の東濃地域、土岐とか多治見とかの都市ですが、これは窯業都市などといわれ古くからの窯や陶磁器工場が立ち並び独特の景観が残っています。こういうところでも、こうした産業の街並みを都市計画に組み入れて考えようという動きが広まっています。 函館でも今、駅や港の整備工事がさかんにされていますが、この摩周丸はどうするのでしょうか。こうした開発も、摩周丸という産業遺産と一緒に考えていただければなあと思います。 ===== 産業遺産摩周丸をきっかけとした函館観光の発展を ===== 最後になりましたが、皆さんにそういうことも考えていただいて、摩周丸というこの船を多くの人が知るようにしていただきたい。またとくに、いい意味での観光資源としてこの船を使って、世界に発信してほしい。 とにかく日本は1800万人が海外に観光に出て、400万人しか来てくれない、2兆円の観光赤字の国ですから、外国からのお客さん、国際的な観光を考えてほしいのです。函館の街の中で、こうしたさまざまなことが、摩周丸の動きががきっかけとなって、はじまってほしいと思います。 ===== 質疑応答 ===== **質問者1** 産業遺産の保存というが、どのようにして保存するに至ったのか、またその保存の費用などはどうすればいいのでしょうか。 **須田** まず、今各地で見せている産業遺産のいろいろですが、大きくわけると、休止状態であったりしたものを修繕し動かせるようにもっていったものと、ついさっきまで動いていた使っていたというもの、この2つのケースがあるんです。 で、小規模の産業遺産の博物館なんかには後者のものが多いんですね。こうした場合、「ウチにこんなものがあるのだが、保存すべきものだろうか」と行政とかなにかに相談する、すると「それは価値がある」となると県や市が少し金を出してくれる、で残っている、客に見せているというケースです。こういうケースだとそれほどお金がかからないのです。 ただ、大企業の場合は前者のようなものが考えられます。これには文化事業という意味のほか、もちろん宣伝の意味もあります。今はまだ完成前なので講演では触れませんでしたが、陶磁器メーカーのノリタケが造っている「ノリタケの森」なんていうのもそういうもので、これはまた大規模ですばらしいものです。トヨタの博物館なんかもそうでしょう。要は相談する、それに応じるという問題意識を当事者が持つことです。相談するとなんとかなるものです。問題意識を持つことにはコストもかかりません。 愛知という土地柄はそうした意味では恵まれていたと思います。モノづくりの土地柄でしたから。たとえば鉄道車両なんかもそうです。実はJR東海でもいろんな車両を保存しています。いまは費用の関係で公開まで至っていませんが・・・、同じJRでも会社によってはどんどん捨ててしまっていますね。 とにかくまず問題意識、問題提起だと思います、そうすれば道は開けます、それがないと、置いておくのにもコストがかかる場合もあるので捨ててしまいます、実際、ギリギリで壊されるのを免れて助かったものもあるし、無くなってしまったものもあります。 **質問者2** 函館でさまざまな産業遺産の保存運動をやっている者です。ここは古い港町ですのでいろんな古いものが残されています。私は古い舶用原動機、たとえば焼玉機関のようなものを10台ばかり自分で集めました。あれは大きくて重くて置き場所だけでも大変です。市やあちこちの行政や会社に貴重なものなので引き取って保存してくれないかとお願いしたのですが、2台しか受け取り手がいませんでした。路面電車の台車、近代水道初期の施設、消防ポンプなど函館に残されている貴重な古い産業遺産は摩周丸以外にもいっぱいあるのです。こういうものを保存する博物館のようなものが函館にあるといいと思うのですが、いい知恵はないでしょうか。 **須田** そうですね、なかなか置き場所の問題のからんだ保存話というのは難しいです。どうしても保存がままならないという場合には詳細な図面を残すというのも一つの手です。名古屋城は詳細な設計図が城の焼失前に採られていました。ですから今のあの名古屋城はほぼ本物と同じ形状です。大阪城は戦前の再建ですが、あれは往時のものとは違っているそうです。 また、戦前、名古屋城には本丸御殿というのがありまして、そこに見事な何十枚もの襖絵がありました。ちょうど襖絵を郊外に保管したあとに本丸御殿が戦災で焼失しましたが、この本丸御殿も詳細な図面が採られていました。一方襖絵の方はまだ本物が残っています。ですから、今、本丸御殿は往時のままの再建が可能ですし、再建後、これは本物の襖絵をはめこんで見せることができるのです。 今の技術では設計図さえあれば本物と狂いなく再構築することが可能です。ですから、どうしてもだめなら、詳細な図面を残すという手があるということを覚えておいてください。 **質問者3** 産業観光は学習観光なのでそれだけではつらい、他の観光資源などと結びつければいいといわれましたが、他の観光資源といっても函館では難しいのではないでしょうか。 **須田** ここ函館でもうひとつあたらしいジャンルを考えると、たとえば、乗り物というのはどうでしょうか、古い路面電車もありますし、またJRの基地もあります。 JRの函館の基地、これは北海道の鉄道車輌のほとんどを扱った非常に歴史のある基地ですから。まあJR北海道はなかなか資金的には大変だと思いますが。 **質問者4** 戦時中海軍に応召されていて、横須賀で戦艦「三笠」を見ていましたが、今はあるのでしょうか。 **須田** 横須賀の三笠ですか。あれはまだあります。ただ、展示内容的には昔と少し変形していると思います。というのは、あれは戦艦ですよね。戦艦としての戦歴や特徴をそのまま披露するというのが、今の平和国家の日本ではちょっと難しいですよね、ですから、展示・説明としては不満が出てくるかもしれません。連絡船とかの商船ならこういう問題はないのでしょうが…、でも三笠は英国製の貴重な船ですね。 **質問者5** 函館山の夜景は函館の名物ですが、あれは町内会費のなかからいくらかが夜景の維持につかわれておるのです。これはどうかと思います。税金とかなんとかではっきり利用者負担にできないものでしょうか。 **須田** 税金というのは、市で税の徴収の条例をつくればいかようにも取るようにするのは可能です。ただ、今の法律では総務省の合意が得られなければ実施できません。現実論としてはいきなり税金で取るというのはつらい。たとえば山の上に施設とかなにかを造って、その利用料として取るとか、ひとひねりがあったほうがいいのではないでしょうか。まあ、これは市民の世論で決まっていくことです。極端なことをいうと街の人が電気をつけているから夜景があるのですから、そういうアピールもいるかもしれませんね。 ==== 講師 ==== **須田 寛(すだ・ひろし)** 1931(昭和6)年京都生まれ。1954(昭和29)年京大法学部卒業。同年4月、旧国鉄入社。以後、主として旅客畑を歩み、旅客局総務課長、名古屋管理局長、旅客局長、常務理事(営業担当)などを歴任、在職中には「ディスカバージャパン」や「いい日旅だち」などのキャンペーンをヒットさせた。 1987 (昭和 62)年4月のJR発足の際は、JR東海の初代社長に就任、5期8年務め、同社の基礎作りに貢献し、現在は代表取締役会長。最近は社外での活動も活発で、 NHK経営委員長、中部経済連合会副会長、名古屋商工会議所文化委員長、日本観光協会中部支部長、中部の観光を考える百人委員会副会長の要職にある。趣味は鉄道というほど、根っからの鉄道人で、東京から鹿児島までの全駅名をそらんじている、という話は有名。ライフワークとして観光に取り組み、「産業観光」を提唱、その推進役として名古屋から全国に発信中である。主な著書に「産業観光」(交通新聞社)、「東海道新幹線」(JTB出版)、「時刻表にみる国鉄旅客営業のあゆみ」(日本交通公社)などがある。

産業観光と青函連絡船摩周丸.1463992188.txt.gz · 最終更新: 2016/05/23 17:29 by takahashi