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津軽丸型連絡船の設計

津軽丸型連絡船の設計・沈まない船をつくる

執筆:石黒 隆

初出:『青函連絡船 海峡の記憶』(舵社・2000年)

はじめに

1988年3月に青函連絡船が終航となったとき、八甲田丸、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸、空知丸、檜山丸、石狩丸の7隻が働いていましたが、このうち空知丸は貨物専用船、檜山丸と石狩丸は貨物船から客貨船への改造で、八甲田丸ほかの3隻が最初から客貨船として建造されたものでした。

この新造としては最後となった客貨船は同型船が7隻造られたのですが、その第一船であった津軽丸の設計について、特に私が最も重点を置いた安全性能の向上の面についてお話したいと思います。そのためにはどうしても洞爺丸事件にまでさかのぼらなければなりません。非常に悲しいつらい思い出ですが、まずその概要からはじめます。

洞爺丸事件の概要

事故の被害

1954年9月26日、15号台風により、洞爺丸ほか第十一青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸、計5隻沈没。乗客乗員1632名中、1430名死亡(112 名遺体見つからず)、202名生存。旅客1089名中、981名死亡、108名生存。米軍57名中、56名死亡、1名生存。

事故の原因

海難審判の結果では「洞爺丸船長の15号台風に対しての運航に関する職務上の過失、すなわち出港判断のあやまりと船体構造の不適当も一因と考えられる」ということになっている。

15号台風とは

1954年9月18日、カロリン諸島東部に弱い熱帯低気圧が発生、9月21日には北緯13度東経137度付近に達し台風15号と命名された。その後 26日 2時に鹿児島の西部に上陸、さらに宮崎の西方を通り九州地方を横断し、6時には柳井沖から中国地方に上陸、東北に進み、8時頃米子と鳥取の間で日本海に出て北上を続け、函館の真西に来たのが16時頃であった。この間10時間で1000キロメートルを移動したわけで、時速にすれば100キロメートルということになる。

この高速で北上してきた台風が函館の西で突如として時速約30キロメートルと極端にスピードダウンしたため、本来ならとっくに北方へ去っているはずの台風が函館の西に居座って長時間、暴風雨と強大な波浪が函館湾を襲うという、避泊している船舶には最悪の状況となった。

洞爺丸は函館16時30分出港のダイヤであったが、台風情報で若干様子を見るため出港を見合わせ18時39分出港して青森に向かった。防波堤を出たところで予想外の高波、暴風雨のため、さらに様子を見るために錨を入れた。しかし、高波に揺らされた洞爺丸は錨が効かなくなり、ずるずると七重浜のほうへ流されるとともに、船尾の開口部から浸入した海水が機関室へ流入し、機関を動かすこと、すなわちプロペラを動かすことができなくなった。このため船の向きを風波にたてることができなくなり、まともに横腹に波を受けるようになって、22時39分SOS発信、43分頃横転沈没した。

新船の設計を担当

当時私は函館の駒場町に住んでいたが、9月26日はちょうど日曜日だったので、昼頃からラジオで台風の情報を聞いていたが、東京の国立競技場で行われていた競技の中で「日本海を北上する15号台風の影響で、小石が風で飛ばされて足にぶつかり走りにくいと選手が言っている」という放送があり、この台風の強さを感じたことを覚えている。また、夕方には青空が見え夕焼けのようになったので、これが台風の目なのかとも考えたりした。

翌朝鉱石ラジオで洞爺丸の遭難を知り、局までの3キロメートルを走って事務所にかけつけたところ、課長以上の局員はすでに前の晩から詰めて対策に忙殺されており、私もすぐに命を受けて、難をまぬがれた港内の連絡船の被害調査に向かった。

それからあとの数年は、沈船の引き揚げ作業、残った連絡船の安全対策工事等に追われる一方、当時青函局にいた造船関係の責任者として、事件後の合同捜査(警察、検察庁、海上保安庁、海難審判庁)のため各所から呼び出しを受ける毎日で、日によっては朝から晩まで取り調べを受けたこともあった。また東京高等海難審判での第二審では証人として呼び出され、宣誓のうえ証言をしたこともあり、審判対策にも追われる状況であった。

私はその後1960年に東京の本社へ異動となったが、転勤後しばらくして石田禮助国鉄総裁の方針で、青函連絡船の中で洞爺丸事件後輸送力の減少を補うために急遽建造された空知丸、檜山丸、十和田丸の3隻を除き、あとの船は一斉に取り替えることとなり、その新船の設計を担当することとなった。

もちろん一挙に取り替えるわけであるから当然従来の形を踏襲するのではなく、思い切った性能の良い合理化された船ということになり、旅客設備の快適性、スピードアップ、1隻当たりの輸送力のアップ、自動化の推進等々、考えられる性能はすべて向上させることになったが、私の心の中には極端なことをいえば、ともかく第一に安全性のすぐれた船を造るということしかなかった。

船の安全性について

安全性について、私は次の3つに段階を分けて考えた。

  • (1)事故の起こりにくい船にする
  • (2)たとえ事故が起こっても、なるべく小範囲にとどめる
  • (3)船が万一助からないような事故のときでも乗客乗員の生命は助かるようにする

まず(1)の事故の起こりにくい船にする点についてであるが、船の事故は、

  • (a)荒天(風、波)による転覆、沈没
  • (b)衝突(他船、岸壁、防波堤等)あるいは座礁などによる浸水、沈没
  • (c)火災

の3種類に分けられる。

(a)の荒天による転覆、沈没については、船の堪航性、復原性能の向上を図ることに尽きるわけで、堪航性については船殻構造を強力なものとし、復原性能については従来の船尾開口部に頑丈な水密扉を設けることにより格段に向上する。また船尾扉をつけることにより洞爺丸事件で経験した船尾からの浸水も完全に防ぐこともできた。

(b)の衝突、座礁による浸水、沈没に対しては、船の操縦性能を良くすることで、かなり回避することが可能と思われた。そこでプロペラを従来の固定ピッチから可変ピッチに変更し、また船首部にはバウスラスターをつけて船が停止していても船首を自由に左右に移動させることができるようにした。可変ピッチにすることにより機関は常に一定回転で運転することができ、船橋での前進、後進、低速、停止が思いのまま、しかも速やかに行える利点があった。前進全力からの停止距離は従来の方式と比べると半分くらいになった。

(c)の火災については可能な限り不燃性、難燃性の材料を使うこととし、日頃ひと気のない倉庫のようなところには自動消火弾を設置した。

次に(2)の事故をなるべく小範囲にとどめることについては、(a)の復原性については基本的性能を高めることが最良で、そのほかには大きく揺れて貨車の緊締具が壊れるような場合でも、貨車自体が左右に大きく移動しないように、などを考えた。

(b)の衝突等による浸水については、船の主機械・発電機等のあるバイタルパート(重要部分)は船底船側ともに二重構造になっており、また船全体を縦方向に12 個の水密隔壁により13区画に分けてあり、たとえ連続2区画に浸水しても船は沈まないようになっている。さらに浸水によって船が傾いた場合は、強力なポンプで速やかに傾きを直せるようになっている。

(c)の火災については、客室は随所に性能の良い火災探知機を設け、消火器、消火設備を整え、車両格納所には強力なスプリンクラーを数区画に分けて設置してあり、火災によってスプリンクラーから自動的に散水される。火災が起こると船橋に音声警報で火災発生が知らされ、また火災の場所も表示されるので直ちに対策がたてられるようにして、極力火災が広がらないように考えた。

機関室については通常の泡消火装置をつけ、万一の場合は密閉消火をすることとしていたが、その後の経験により炭酸ガス消火装置を追加装備した。

(3)の人命救助については、乗船人員を全員カバーできるゴムボートを装備して全員がゴムボートに移乗できるようにしたほか、乗り移りも比較的楽に行えるようにシューター(膨張式すべり台)を左右舷3か所ずつ設けた。また救命胴衣も定員分以上準備したが、この救命胴衣は、装着した人が失神状態にあっても必ず顔を上に向けて水に浮かぶようにして窒息しないような浮力の配置となっている。このほかゴムボートの移動整理用として機動艇2隻を装備した。

以上の説明の中で船尾扉と貨車転倒防止装置、およびゴムボートとシューターについて若干説明をつけ加えたい。

船尾扉の開発

洞爺丸事件の経験に鑑み、国鉄では管理部門のあり方をはじめ運航技術部門、造船技術部門で細かな対策がたてられたが、技術部門で洞爺丸の教訓から直接生かされたものに船尾扉がある。

鉄道連絡船は旅客以外に貨車をそのまま船内に載せて運び、対岸で陸揚げして、また貨物列車として走らせるというのが特色であり、この方式はのちに現れたコンテナ船の発想のもとになっている。

ところで貨車をそのまま船内に入れるため船尾に大きな開口部があり、岸壁の可動橋を通って陸上のレールと船内のレールをつなぎ合わせるのである。このような設備のある場所に完全な水密扉を設けることは、そう簡単ではなく、また1日5回も短時間内に開閉作業ができなければならない、ということで考えたのが、強力なトルクヒンジを使用する方式だった。

津軽丸で使用したのは油圧式トルクヒンジで船尾扉を上下2枚からなる構造とし、まず下半分を上下の扉の間に設けられたトルクヒンジで180度回転させて上半分の扉と重ね合わせ、その後上部の扉と船体との間に設けられたトルクヒンジで約90度回転させて全体がほぼ水平になるようにし、その位置で固定する方式とした。このため2個のトルクヒンジはかなり強力なものとなった。

さらに扉を閉めたときの下端に当たる車両甲板上のレールは、一部跳ね上げ式にして完全水密にすることができた。

貨車転倒防止装置

船内に積み込まれた貨車は車両緊締具という器具で甲板につなぎとめる。従来はターンバックル方式の器具で貨車の下側にあるアングルと車両甲板上のリングとを緊締する方式であったが、貨車のほうはアングルであるため、はさみでとめるような器具になり結びつきが完全とはいえなかった。そこで、国鉄の工作局にお願いして当時10万両以上あった貨車が工場に入るたびにアイプレート(フックをかける穴のあいた板)をつけてもらった。こうすることにより緊締具の両端ともフックになり、緊締の確度をあげることができた。またターンバックル方式を扱いの楽なレバーブロック方式とした。

なお洞爺丸事件では貨物船が横転沈没する際、貨車がかなり左右へ移動して復原性能を悪化させたのではないかと考えられるので、その点についても船体の中心線には前後方向に鋼壁で囲まれた構造物をつくり、また左右舷に2本ずつある線路の間にピラーを密に立てることにより、車両がたとえ転倒しても左右へ大きく移動しないようにした。

洞爺丸事件後は台風等で港外に避難するときは旅客はもちろん、貨車も積まないで出港するのが原則となっていたが、そういった暇もなく避泊せざるを得ない場合も考えておく必要があると考えた。

ゴムボートとシューター

ふつう連絡船のように船の大きさのわりにたくさんの旅客を乗せる船では、救命艇を定員分設備することがスペース的に難しく、そのためいざという場合に全員を救命艇に収容することができない。タイタニック号のような大きな船でも定員分の救命艇がなく、あのように海の静かな場合、全員乗れるだけの救命艇があったらと誰でも考えると思う。まして連絡船の場合は陸地から比較的近いところを航海しているので、ともかくボートに収容できれば救助船が来るまで、そんなに時間がかからないので、全員助かるのではないかと考えた。

そこで採用したのがゴムボートである。ゴムボートであれば全員分を船上に格納するのにもそんなにスペースはいらない。ただ問題は海面に投下されたゴムボートにどうやってお客を乗り込ませるかということであった。今までの救命艇のように船上でお客を乗せて海面におろす方式はとれないし、また従来からある網梯子では年輩の方とか子供には無理ということで、航空機からの避難用に使われているシューターを参考にすることにした。

航空機の場合は高さの関係でシューターは比較的短いものですむが、船の上甲板からとなると普通席からで11メートル、グリーン席からは14メートルも必要なので構造的にもかなり丈夫にしなければならず、設計試作に時間を要した。シューターの材料はネオプレーン被覆のビニロン二重布で、膨張装置は窒素ガスボンベにアキュームレーター(外気を同時に吸い込む装置)を併用し、外界の温度差で膨張の具合が変わらないようにした。

このシューターはふだんは甲板上に格納されているわけだが、格納するときの折りたたみの仕方で、うまく膨張してくれないことが、津軽丸の完成間際の造船所でのテストのときに失敗して分かり、いろいろと検討した結果、掛け軸のように端から巻き込むようにたたみ込むことによって解決した。

おわりに

1964年から約3年の間に順次建造された津軽丸型客貨船7隻は1988年3月13日、青函トンネルの完成とともにその任務を終えたのですが、その間大過なく安全に使命を果たし得たことは、本当に喜ばしいことでした。これはこの20数年間にわたって船を安全に動かし、また整備してこられた乗組員の方々および修理にたずさわってこられた方々のご苦労のたまものであって、設計に関係した一人としておくればせながら、心からお礼を申しあげます。またその間、船の航海をおびやかすような、人智を超えた天災地変に遭わなかったことにも感謝しています。

著者

石黒 隆(いしぐろ・たかし)

1925(大正14)年生まれ。1937年旧制東京高等学校(7年制)尋常科、1943年東京帝国大学工学部船舶工学科入学。1946年運輸省鉄道総局業務局船舶課入省、1953年青函鉄道管理局船舶部船務課補佐となり洞爺丸事件に遭遇。船務部総務課長、船体課長を経て、1960年国鉄本社船舶局船務課補佐となり、津軽丸の設計にたずさわる。その後調査役、次長を経て、1972年国鉄青函船舶鉄道管理局長、1974年退任。国鉄退任後、弘済出版社専務、弘済広告社社長、ジェイアール東日本企画副社長等を歴任。1978年METT管弦楽団(アマチュア)実行委員、現名誉会長(兼オーボエ奏者)。特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会初代理事長、現名誉会長。

津軽丸型連絡船の設計.txt · 最終更新: 2016/05/28 15:51 by takahashi